立脚点と歴史観

戦後80年、フィリピン慰問を終えて

大東亜戦争終結から80年の令和7年10月、ジャーナリストの井上和彦氏を先頭に30人の有志でフィリピン戦没者の慰霊に行ってきました。先の戦争で亡くなった210万人のうち52万人がフィリピンの地で散りました。それだけフィリピンは南方戦線の拠点だったということです。現地の市では毎年10月25日、スリガオ海峡海戦の日に追悼式を開催してくださっています。「立場の違いはあれ、それぞれに祖国と家族を守るために戦った兵隊さんは英雄であった」。それが現地の方々の歴史の見方で、会場には日本、アメリカ、フィリピン、オーストラリアの4か国の国旗が掲げられ、先人を讃え平和を願う式典が開催されます。前夜祭では現地の子どもが日本の唱歌「ふるさと」をきれいな日本語で唄ってくれました。「志を果たして いつの日にか帰らん 山は青きふるさと 水は清きふるさと」。この海で亡くなった英霊はどんな気持ちで最期を迎えたのでしょうか。各国の軍人が参列する中、日本の防衛省は「慰霊と追悼は違う」という理由で不参加でした。

スリガオ海峡海戦の海域で、私たちの乗ったフィリピン国沿岸警備艇と海軍の軍艦がドッキングし、私たちは軍艦に乗り移り慰霊式典に臨みました。夕暮れのスリガオ海峡に慰霊のラッパが鳴り響きます。ここまでフィリピン軍がやってくれるのは国の隔てなく英霊への尊崇があるからなのだと思います。日本ではこのようなことができるでしょうか。

フィリピン慰問団はレイテ島に入りました。オーモックからタクロバンまでバスで各地の戦跡を巡り、石碑をきれいにし黙祷を捧げます。「レイテでは雨の中の戦いが多かったんです」と井上氏が解説すると、空は晴天から土砂降りに変わり、まるで英霊が私たちに戦闘の凄まじさを見せてくれているようでした。

フィリピンではマッカーサーを絶対的存在としており、それを証明させるかのようにマッカーサーがレイテ湾に再上陸する姿を再現したレイテ上陸記念国立公園が造られています。これも国際社会で生きていく術なのでしょう。大東亜会議に出席したホセ・ラウエル比大統領は戦後巣鴨刑務所に勾留されるも、息子には「これからも日本とともに歩め」と右手を振り上げました。その銅像は今もレイテ上陸記念国立公園から車で10分ほど走ったレイテ湾を望む国道沿いに置かれています。

マッカーサー上陸地の近くには山添勇夫大尉を慰霊する像が現地の人たちによって守られています。アメリカに代わって統治した日本軍政の医療行為やインフラ整備が認められてのことです。日本国内では今も「先の戦争で日本はアジア諸国に多大な迷惑をかけた。これからも謝り続けなければならない」。このような史観を語る日本の政治家がおり、近隣国があります。しかし、実際に現地に行ってみると、今回のフィリピンだけでなく、台湾でもパラオでもそうでしたが、「日本の統治時代はよかった」という声をたくさん聞きました。未だ日本では戦勝国史観で教育界も言論界も固められているのです。日本人はこのことを知らねばなりません。

1週間のフィリピン慰問から帰国し、その足で安着御礼をかねて靖國神社に参拝しました。「祖国と家族を守るために命を捧げた先人たちは立派だった」。これが、私が今回の慰問で得た感慨です。私たちは210万柱の英霊に恥ずかしくない生き方をしなければいけません。先人が今の日本を見てどう思われるか。さらに将来この国に生まれる人たちは今の日本をどう評価するのか。そんな「タテの民主主義」の視座を心に持ち、政治活動に邁進していく思いを再確認しました。

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